思い立ったが吉日の人

 一九五四年がとっぷりと暮れる頃、この路地裏で祖父はなにを憶っていたのだろう。昭和三十六年二月吉日。ありあわせの仙花紙に一筆をしたためたのは、持ち前の流儀がいたらしめるもので、武骨な杉の扁額に縁取られた文言は、今もその人を偲ぶよすがとなっている。曰く「この度さゝやかな店を商う事になりました。すこしでも皆さんのお役たてばこの上ない光榮です。皆さんや皆さんのお子さんがやがてこの地を雄飛して、はるかに故鄕に思いを致す時、何時もやさしかった母さんの面影のあとから心のかたすみに浮かんでくる小さな雜貨店、そのような店になる事が出來れば」云々。この文句を読むと少年の日の幻と共に、今もあざやかに祖父の思い出の断片が浮かんでくる。そしてまた「皆さんのお役に」これが祖父の全てであったように思う。折しも時は高度経済成長の首がすわって這いだそうとする時分。この地を旅立っていった当時の若者たちが、数年後、大都会の喧噪の中で母を憶う時、この町にひっそりと佇む小さな雜貨店を、懸命に働く若かりし我が祖父母を、思い出してくれただろうか。

 大正十五年、祖父福田義雄は百姓屋の次男としてうまれた。その頃の農家の苦しさについては、平成の御代を生きるわたくしには及びもつかぬものらしい。しかしながら、かつての世代が経験した苦労や悲しみ、あるいは喜びは、なにやら共有されたものとして確かに存在していて、さしあたり住む土地によって異ならないものである。共有されたはずのそれらが、現代においてはごく個人的なものに転嫁し、他を蔑ろにしがちなものになりはてて、世の中をせち辛いものにしている、とこれは余談。

 昭和十六年開戦。長男は出征。のちパプアニューギニアで戦死。祖父は十七歳で予科練、土浦海軍航空隊を経て鹿島海軍航空隊へ入隊し、特攻隊に志願するにいたる。山本五十六大将は戦死。昔日の日本海軍の威容は消え去り、特攻作戦以外に海軍としての作戦がたたない時期であったと先人は記している。じつに多くの戦友が沖縄の海に散華したと祖父はのち語った。祖父は生きて帰った。のちの世の人がいう「運が良かった」ゆえの生還が、祖父にとってどれほどの苦しみを与えたかは察するにあまりある。たとえそうだったにしろその運は、巡り巡ってわたくしの両親、叔父叔母、かく申すわたくしを含める大勢の運でもあった。戦後は国鉄の機関車乗りを経て、地元の老舗醤油会社で営業をし、雜貨店を足がかりに、近隣農家で栽培された野菜を漬物にして販売することを決断したと聞く。故事にいう「日光を見ずしてけっこうと云うなかれ」から、社名はずばり「けっこう漬本舗」。少々色気づいた頃のわたくしは、なんて名前をつけやがる、と思わないではなかったものの、いわばそれも若さゆえか、今ではこのユニーク、このユーモアをほほえましく感ずるに至っておりまする。

 雜貨店にはじまり漬物屋を興し、十六年後、ドライブインの発想から、手打ち蕎麦屋を併設する念願の「けっこう漬今市インター店」をオープン。「けっこう漬森友バイパス店」出店に際しては、「日光と言へば湯波」と湯波製造を開始。極め付けはミネラルウォーターで、「これからは水だ」と周囲の失笑反感をものともせず機械を導入し販売し始めたのだと聞く。二十五年の歳月が過ぎた今日、水を買うという日常に首を傾ぐ人もとんと見ぬから、この先見の明とやらにはイヤハヤ恐れ入りやした。もっとも「次は空気だ」には一同閉口したそうだが、祖父伝説の一端を語る上ではかかせないのでここに記す。

 思うに祖父はまさに実行あるのみ、思い立ったが吉日の人であった。これは我ながら言い得て妙で、言いかえれば祖父の思い立つ日々、毎日が吉日だったとも言える。

 我が家には珍しく戦争を語った祖父の講演テープが残されている。同世代の仲間たちの多くは、行く春を憂える桜のように、いにしえの空へと散ってすでに久しい。時を経て年長者になる祖父が語る心境はどんなだっただろう。それでも年配者が語る若者への情とは違って、やっぱりおんなじように戦後を生きた仲間としての視線であった。死への考えもあったそうで、悠々なる哉の藤村操よろしく、華厳の滝に赴いたというから、わたくしの出生にもかかわる一大事であった。

 「福田、俺たちの分まで生きてくれ」

 仲間たちがーーこれから死にゆく若者たちが残した言葉が、戦後の祖父を救った。それからということもなかろうが、祖父の出で立ちといえば、きまって戦闘帽と旭日旗のついたジャケットで、店にはいましも出航を待つ戦艦しかりと、旭日の旗がひるがえっていたのだから、日常が戦いの舞台でもあった。

 二〇一〇年十二月、祖父の戦友、同期の桜、練馬の柳川氏からお歳暮が届いた。祖父が死んで二十二年、毎年かかさず友の家族にまで気をかけてくださる。わたくしが幼少の頃、柳川さんにお目にかかった事が一度だけあった。あの方がおじちゃんの同期の桜だと聞いたわたくしは、僕もきっと大人になったら、ああいう同期の桜ができるんだな、と無邪気に思った事を記憶している。

「心のかたすみに浮かんでくるけっこう漬という小さなお店」を切実に願い且つ愛し仲間のために生き仲間の分も人の役に立ちたいと決意した福田義雄は律儀に昭和を駆抜けて昭和六十四年十二月三十日白血病のため死去。享年六十四。かねての希望により骨の一部は沖縄の海で仲間との再会を果たした。葬儀の日には、去る人をさとすかのように散る桜ーー雪が降り始め、その人も心のかたすみに浮かぶ大切な面影となっていった。